小六の夏休みが明けると、女子が妙におとなびていた。
鼻であしらわれる場面が増えた気がする。僕らが変わらず馬鹿話をしていたから、かもしれない。
以前に書いた『隻眼の緑のおばさん』についても、僕らは子どもらしく、残酷に憶測を巡らせていた。「ヤクザを怒らせたんじゃないか」「おばさんこそがヤクザの親玉だ」など。散々盛りあがって「カラスに突つかれたんだろう」で決着した。
つくづく、ガキだった。
だが、ジュンには好きな女の子がいた。
学年で人気だったのは、マンガのように対照的な双子だった。同じ顔立ちだが、姉のほうは快活で、妹のほうは物静か。『どっち派』かで人気を二分していた。
僕は妹派だったが、ジュンは『どっち派』でもなかった。
恥ずかしがり屋だけど、冗談を言うのが大好きな、ハーフの女の子。メイちゃんに夢中だった。彼女の茶色いカーリーヘアは、いまでも印象に残っている。
初恋。そうなると、僕らも馬鹿話ばかりに興じていられない。
その日は、下校のときになってジュンとトオルから銭湯に誘われた。
初めてのことだったので、トオルに「なんで」と尋ねると「給湯器が壊れた」と言う。僕は瞬間的に逡巡したが、断った。人前で裸になることに抵抗があったのだ。
ジュンは、そうもいかない。
僕がイヤミなことを差し引いても、ジュンの家庭は裕福といえなかった。学校内でただ一人、家に風呂場がなかったのだ。だから、庭に置いた盥で水浴びをするか、銭湯に行くしかなかった。
平屋で二間。裏庭は鬱蒼としていて、冬場は寒いし、夏場は蚊の巣窟だ。かといって、銭湯の入浴料も馬鹿にならない。行くのは週に二回と、制限されている。
「俺、汗臭くないかな」と、ジュンは気にしていた。
お年頃だ。ジュンには一つ上の姉もいる。僕が「風呂がある家に越せないのか」と言うと「無理に決まってるだろ、イヤミ」と返された。
一方で、酒井家に激震が走った。
家政婦のイシダさんが、癌になった。僕が生まれるまえから勤めてくれていた人だ。
イシダさんには、家族に話せないことも話せた。酒井家全員にとって、そういう存在だった。快復を祈るばかりだったが、同時に『誰が掃除や洗濯をするのか』という問題も持ちあがった。
僕にも姉がいる。母は「代わりばんこで掃除をしろ」と命じてきた。しかし、女子高生の姉は多忙らしく、数百円の駄賃で僕に押しつけてばかりだった。
気が重い。そのことをジュンに話すと、予想外の反応に驚かされた。
「風呂掃除、させてくれよ。一度でいいからやってみたい」
我が家の風呂場には伊豆石が敷いてあった。乾いているときは灰色だが、濡れると翡翠色に光る。
天井はガラス張りになっていて、明るい。
デッキブラシと洗剤を手に、僕らはそこを磨き始めた。
「メイちゃんもS中に行くってさ」
「そしたら告るのか」
「わかんない」
正直、告らなくてもバレバレだったと思う。彼女のほうもジュンと話すのが嬉しそうだった。
「おまえ、コンディショナーなんて使うのか。髪がベタベタにならないか」
「ならないよ」
作業が進むなか「あ」と、ジュンが手をとめた。排水溝から毛を一本、摘みあげる。見るからに頭髪ではない。
「これはもしかして。おまえ、もう」
母か姉のかもしれなかった。僕は「ふざけるなよ」と、憮然とした。
なぜだか判らないが、ジュンは「生え揃うのか」とか「声変わりするのか」といったことに不安を抱いていた。「中学にあがってから心配しろよ」と、何度か宥めたのを憶えている。
学ランがしっくりきた頃に、それらの悩みは解消した。
僕らの元の声は録音してある。聴き返すと、信じられないほど甲高くて笑える。その録音については、また別の機会に。
洗剤の泡を流しきって、風呂場はピカピカになった。喋りながら、ふざけながらだったので、二時間近くかかった。
伊豆石は翡翠色に天空を反射させている。
清々しく、僕らはハイタッチした。蒸気か汗で、頭からぐっしょりだった。
あの家は売ってしまった。いま、両親はマンションで暮らしている。便利にはなっただろうが、伊豆石が恋しいだろう。
数年後。
高校生になった僕は、スーパーの袋からネギを突き立てて歩いていた。すると、向かいから来た女性が「あら」と声をあげた。
癌を克服したイシダさんだ。健康そうな姿を見て、安堵する。
「あなた、お買い物できるようになったの。お料理もするの」
「風呂掃除もしますよ」と答えると「立派になったのね」と、彼女は泣きだした。実際に涙を流していた。随分と僕の生活能力を危惧していたようだ。
べつに立派だとは思わないけれど、あの日以来、僕は風呂掃除を欠かさない。
酒井。
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