放課後、僕らはジュンの家の裏庭でリコーダーを吹いていた。音楽の授業でテストがあるためだ。パッヘルベルのカノンは、九番あたりで突如として音符が増える。
「すごいな、ノゾミ。吹けてんじゃん」
ジュンが褒めてくれたので、リコーダー奏者になれるかもしれない、と、自惚れる。
そのあと、なんてことない無駄話になった。
話し出し、ジュンは真面目な顔をするので、こちらも真面目に聞き入る。
「俺さ、政治家っていいなって思ってたんだよ。しょっちゅうお食事券を貰えるんだなって。最近、気づいたんだけどさ、汚職事件だったんだよ」
おしょくじけん。確かに同じ音だ。よくある勘違いなのだが、なるほど。
「俺もさ、十把一絡げって、十羽の鶏を一つの唐揚げにするんだと思ってた」
「じっぱひとからげって、なに」
僕の『あるあるネタ』はジュンに通じなかった。説明するのも面倒で、お互いに腑に落ちないままリコーダー練習に戻った。気づけば夕暮れどきになっていて、ジュンの父親が帰ってきた。
「いつもジュンがありがとうな。今度、お礼をするから」
そう言われたが、社交辞令だと思った。
その日曜日、ジュンの父親から食事に誘われた。
「ほんとうのカレーを食わせてやる」
普段のスーツ姿と違い、ジーンズにサンダル履きで、レイバンのサングラスをかけている。気取りがなく、正直で、社交辞令など言わない。その点で、親子はよく似ていたのだ。
ジュンと三人、暫く電車に揺られて、雑居ビルのような場所に到着した。エレベーターで、インド人と乗り合わせる。外国人馴れしていない僕は身を硬くした。
そのとき、ジュンの父親が流暢な言葉でインド人と冗談を交わし始めた。衝撃的だった。ヒンディー語だったのか英語だったのか、いまとなっては判らない。
「ウチの親父、インドに留学してたんだよ」
誇らしげに、照れたように、ジュンが言った。
知る人ぞ知る、というようなインド料理店では、僕の知っているカレーとは全く違ったものが出てきた。ポタージュのようにさらさらしていて、嗅いだことのない匂いがする。米粒は細長く、粘り気がない。
「これがインドのカレーだ。こっちはサモサ。なかみはコロッケみたいなものだ」
平たく間延びしたパン、ナンを見たのも、このときが初めてだ。僕が旨いと感じたかどうかは、思い出せない。ただただ緊張していて、驚嘆していた。
ジュンの父親は、インドには色鮮やかな粉を撒く祭りがあること、それがいかに美しいかを語った。想像するだに胸が高鳴る。
だが、最も僕の印象に残ったのは、以下の情報であった。
「インド人にとって左手は不浄の手だから、右手で飯を食うんだよ。手掴みで、な」
『不浄の手』。それは、僕にとって物凄く中二的な響きだった。『神の左手悪魔の右手』というマンガのタイトルを知っていたので、その逆バージョンだ、と。インド人の左手には『闇の力』が宿っているんだと、思い込んだ。興奮した。
数日後、ジュンが「不浄の手って、便所で使う手ってことだよ」と教えてくれた。
『おしょくじけん』と似たような勘違いだったのだ。なんだよと、若干興醒めした。
それにしても、ジュンの親父さんは格好良かった。会う機会は二、三回しかなかったのだが。
いまでも、僕は彼に憧れている。
近頃では、家でも本格的なインドの味が楽しめるようになったようだ。でも、いつかは本場に行って、祭りも見てみたい。酒井。
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