「俺、百発百中のスナイパーなんだよ」
ジュンが、相変わらず大真面目に言う。
「ゴキブリより小さな虫なら、俺に任せろ」
六月にもなると蚊や小蝿が飛ぶようになる。僕が羽音にすら気づかぬ段階で、ぱんっと、ジュンは一発で奴らを仕留めた。
どんなに素早く無軌道に飛んでも、彼の掌から逃れることはできない。
本人が自称した通り、その眼差しはスナイパー。たいした集中力と動体視力だ。
中学二年の夏が来て、進路指導の時期になった。三者面談、偏差値と内申書、県立と私立、志望校と滑り止め。夏休みには塾の夏期講習があり、それを済ませなくては身動きがとれない。
もう八月に入っていたと思う。ジュンが、父方の郷里である青森に僕を誘った。
「行く。行きたい」
あの格好良い親父さんが生まれ育った家だ。どういった環境でインド留学に思い至ったのか、見てみたかった。
両親の許可を得て、僕らは初めての二人旅をすることになる。
僕は、記憶力にだけは自信がある。特に子ども時代のことは嫌になるくらい事細かに憶えている。だが、青森までの道中が空白だ。大量に菓子を買い込んだのは確か。
空白の先で、僕らは奥入瀬渓流を望んでいた。原生林のような枝葉に覆われ、苔むした岩場に滔々と清水が流れ込んでいる。
「シシガミ様がいそうだな。ジブリっぽい」
僕が言うと、ジュンが合唱団の発声で歌いだした。
「風の谷のぉ、ウマシカぁ」
それって馬鹿だろ、と、ツッコミかけてやめた。ただ笑った。
親父さんの実家は、古民家という風情だった。周囲には茅葺き屋根も点在する。
宵の口、僕らは蚊帳のなかで布団に腰をおろし、マンガの話をしていた。庭先の蛙がけたたましい。負けじと僕らも声を張りあげた。
突然、すぱんと襖が開く。親父さんの親父さん、つまりジュンの祖父さんだ。仏頂面だったので、僕らが煩かったのかと、叱られる準備をした。
「XXX。XXXXXX」
小豆色の巾着を蚊帳のなかに放って、彼は『なにか』を僕らに命じた。
「わかった」とジュンが頷き、祖父さんは部屋から出て行った。僕には一語も聞き取れない、昔ながらの津軽弁だった。
「おまえ、津軽弁がわかるんだな」
「まあ、なんとなく。袋のなかの小銭を数えろってさ」
持ちあげてみると、巾着はずっしりとしていた。五百円玉を除く硬貨が大量に溜め込まれている。十円玉は、錆の緑青に鮮やかだ。
「これ、タバスコで磨くとピカピカになるんだよな」
一時間以上を要して、総額六千円以上を数えた。風呂に呼ばれたので、あがってから祖父さんに報告することになった。
ふと、考える。
これは、ただの金勘定なのだろうか。
祖父さんは最初から総額を承知で、僕らがネコババをしないか、或いは一円と違わず数えることができるか、試しているのではないか。
そんなことを思いながら、湯船に浸かった。
部屋で髪を拭いていると、祖父さんが巾着を取りにきた。金額を告げると、頷いて、にこりともせず去って行った。
あれは一体、なんだったのだろう。
もしかしたらインド哲学と通じているのかもしれない。
電灯を消すと、蚊の羽音が耳を翳めた。蚊帳は吊ってあるし、蚊取り線香も炊いてある。なかなか屈強な輩らしい。
「おい、スナイパー。いるぞ」
出動要請に、ジュンが電灯の紐を引いた。起きあがってすぐさま、一撃で討つ。
「一匹や二匹じゃないな。殺虫剤、スプレー式のやつ。借りてこようぜ」
「いや。スナイパーの名にかけて、俺が殲滅する」
時間がかかるだろうが。眠いのに。
四匹、五匹、六匹。手を打ち続けるジュンは、踊っているようだった。弾けた腹に蓄えられていた血が、彼の掌に模様を作る。
「大物、来たぞ」
見ると、ジュンの規格内いっぱいいっぱい『ゴキブリよりは小さい虫』が飛んでいる。
「銀蠅だってヤったからな。仕留める」
「ぜんぜんデカイって。やめとけよ」
ロックオン。ジュンの炯眼が標的を捉えた。両掌を鋭く合わせる。
が、すんでのところで音が鳴らなかった。
「あっぶねえ。殺すところだった」
「なに」
ジュンは僕のほうへ指の隙間を向けた。その小さな闇のなかで、蛍が光っていた。
「これ、ヘイケだ。ゲンジじゃない」
伊豆では、ゲンジボタルを川辺に放つ。源氏ゆかりの地だから、か。単に躯体が大きく、保護活動の対象だから、か。
ヘイケはゲンジよりも小さかった。
小さいながらも、煌々と瞬いていた。
暫く眺めたあと、ジュンは蛍を窓外に放した。その隙に、また数匹の蚊が侵入した。
スナイパーは、深夜まで手を叩き続けた。
あのヘイケボタルより眩く光る虫を、僕は未だに見たことがない。
酒井です。
先日、修善寺まで足を伸ばしたのは諸理由あってのことで。写真撮影、温泉、親孝行だけではなく。赤蛙公園で『ほたるの夕べ』が開催されていたので、蛍狩りも楽しむつもりだったんです。
そこへ、まさかの台風。六月なのに。悔しいけど断念。
東京でも椿山荘で見られるらしかったのですが、敷居が高く感じられて、臆してしまいました。
久しぶりに眺めたかったな。
画像は、修善寺、菊屋旅館内から写した桂川。奥入瀬ほどのスケールではありませんね。菊屋は、夏目漱石が大喀血をして逗留した宿です。
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