「なあ、こないだ話しただろ。夢のなかで死んだら、どうなるんだろうって」
小学五年生のジュンが、僕の机に腰掛けて言った。
「昨日の夜、『いま夢を見てるな』って気づいたんだ。だから俺、ビルから飛び降りた。だけど死ねなかったよ」
「そりゃあ、死んだことがないからな」
夢は実験場ではない。記憶の反芻に過ぎない。
そもそも僕は、死後の世界など信じていなかった。前世も来世も天国も地獄も、不要。
死は無。長くとも短くとも、生だけで充分だ。
小学一年生で嫌われたと感じて、四年間、ジュンとは遊ばなかった。
だが、その間もジュンの母親は我が家を度々訪れていた。僕の母は「粗茶です」と最低限のもてなしはしていたものの、歓迎しているようではなかった。
ジュンの母親は、決まって冊子や本を残していった。
一軍から嫌がらせをされていた頃。駅へ向かう僕を呼びとめ、ジュンは同じ種類の本をよこした。
誘ったのではない。僕を救いたい一心だったのだろう。
家庭科室の食器や調理器具は、偽物じみている。書割の台所。
僕は辟易しながら、ボウルに入った小麦粉と卵と砂糖と豆乳と、おからを混ぜていた。
『おからのケーキ』。カレーやオムライスのように、刃物や火を使う献立ではない。危険はない、はずだった。
隣にいたジュンが、ふっと静止した。
たちまち四肢を伸びきらせ、硬直し、痙攣し、崩れ落ちる。
万有引力が、作業台とジュンの頭を叩き併せた。鈍く鋭い、柔らかく硬い、頭髪、頭皮、頭蓋骨の和音。それまでで、最も激しい発作だった。
僕はボウルを落とした。アイボリー色の粘液をぶちまけた。
周囲はパニックになっていたようだが、僕だけが別の空間に放られたようだった。超高速で、思考と感情が逆巻く。
なんで? 薬を飲んでいたはずなのに。いま、頭を打ったよな。出血は? 見えないけれど、内出血を起こしているかもしれない。そのまえに、舌を噛まないようにしなきゃ。どうやって? 無理だ。怖い。そうだ、サワコ先生を呼ぼう。先生は俺の出血を止めてくれた。俺の二の腕を掴んだのは止血のためだ。先生なら、助けてくれる。渡された本に書いてあった。出血はダメだ。
出血したら、ジュンは輸血を受けられない。
戒律で、禁じられている。
床で仰向けになっているジュンを視界に捉えながら、指一本、動かせないまま。何秒、何分が経過したのかも判らなかった。
「どけ、邪魔だ」
駆けつけた体育のコイデが僕を押しのけ、ジュンの口にタオルを押し込んだ。
目を醒ましたジュンは、いつもの発作と同じように前後の記憶を失くしていた。束の間の闇と、無。
自分の指を切っても、僕は赤色に鈍感だ。ジュンは、ささくれを剥いたり噛んだりするのが癖だった。その赤色には、冷静でいられなくなる。
この間は、おからのケーキでよかった。刃物や火を使っていたら、どうなっていたか判らなかった。
なんとかならないのか。
家庭科室での発作を目の当たりにしてから、僕は下手な考えを巡らせ始めた。
火曜日と金曜日の夜は、ジュンと会えない。集会があるのだそうだ。
彼と姉さんは生まれたときから参加しているが、親父さんは違った。家族を集会に行かせまいとして、家から追い出されたこともある。
「親父、ゆうべは庭で寝たんだよ」と、ジュンは苦い顔をしていた。それを聞いて、少しだけ勝手な期待をした。
万が一のとき、親父さんなら輸血を断行するのではないか。ジュンの命を守るのではないか。
調べるうちに、輸血をされた信者が病院を訴えたという事例を知った。
一種の決意を以って、それを「どう思うのか」ジュンに尋ねた。彼は即答した。
「そのひとが、かわいそうだ」
「輸血を受けなきゃ、死んでいたかもしれない」
「それでも、かわいそうだ」
いまでも忘れられない、表情、声音。
限られた知識で、解釈をした。
命を取り留めるより、戒律を遵守し、教義を貫くことこそが彼らの『生の根幹』。それを曲げてしまったら、親父さんであっても一生涯、許されないかもしれない。
とりわけ僕は、部外者だ。
彼の信仰を、尊重しなくてはならないと悟った。
ジュンとの記憶を辿ることは、夢を見ることに近かった。
書きながら『いま、夢を見ているな』と、気づく。
子ども時代のことは、嫌になるくらい憶えている。彼は、どうだろう。
願わくば、僕との記憶は十五歳までに留めておいて欲しい。
断っておきたいのは、あらゆる信仰は自由であり、宗教がどうだと言うつもりはない、ということ。
僕個人の信条はさておき、宗教は『人間社会に在って然るべきもの』だと理解している。
酒井です。ゴニョゴニョ言ったつもりとかないんですけど (特設のお知らせ参照)。 バナーとか、この下に貼り付けてくれて、、、お手数をおかけします。
金環日食(2015/05/21/東京)の写真も貰いました。
たぶん、次回が最終回です。たぶん。
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