かつて柳田國男は、山姥を「山の女神が信仰を失い、零落した姿」だと語りました。けれど、その説明には、どこか敗者の歴史を書くとき特有の、静かな諦めが漂っているようにも感じられます。
では、別の角度からこの地層を掘り返してみたら、何が見えてくるでしょうか。山姥は、ただ忘れ去られた存在だったのでしょうか。それとも、ある時代を境に、〝語られ方〟そのものが変容させられていったのでしょうか。彼女は、自然の中で生と死を司る根源的な存在から、『恐ろしい食人鬼』というカテゴリーへ、意図的に分類し直されたのではないか――。私にはそう思えてなりません。
もちろん、神道や仏教といった新たな秩序の台頭により、古き女神が周縁へ追いやられたという側面はあるでしょう。ハイヌウェレ型神話の女神たちがそうであるように、彼女たちはしばしば殺され、その死体から富や穀物を実らせます。 山姥もまた、深山で生を与え、死を呑み込み、時に富を授ける存在でした。産み、そして回収する。それはまさに、大地の母(グレートマザー)としての原初の姿です。
しかし、中世から近世にかけて社会が〝管理〟と〝規律〟を強めていく中で、制御できない生命力は、次第に「危険なもの」や「異常なもの」として扱われるようになります。家父長制というディスクールが強まるにつれ、家の中に収まる従順で保守的な存在が「正常」とされ、そこからはみ出した野生的で過剰な女性性は、山姥という名の〝狂気〟の檻に閉じ込められていきました。
つまり、山姥が恐ろしいのは、彼女が堕ちた存在だからではありません。 統治されることを拒む豊穣の生命力を、私たちが「恐怖」という言葉でしか翻訳できなくなった――。その事実(言語的限界)こそが、彼女を怪物にしたのです。
……そして、この檻は、決して過去の遺物ではありません。現代においても、既存の枠組みに収まらない感性(例えば権力批判)が、冷笑や同調圧力という力学で排除される場面を、私たちは何度も目にします。それは、かつて山姥を村の外へ追いやった、あの古い秩序の、形を変えた再演なのかもしれません。
そんな重たい地層を掘り返している私の横で、当のチャーリーはといえば、陽だまりの中でこれ以上ないほど「正常」に丸まって昼寝をしています。どうやら彼にとっての真実は、歴史の闇に消えた女神の行方よりも、次に差し込む日差しの角度にあるようです。あっ、どうも。岩崎(チャーリーの飼い主)です。
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