4月19日の日曜日のことです。 私は地下鉄の溜池山王駅で降りました。 永田町や国会議事堂前の混雑を避けるための、私なりのささやかな戦略です。 地上に出ると、そこには驚くほどに突き抜けた、非の打ち所のない青空が広がっていました。
六本木通りを国会へ向かって歩いているときです。 反戦ポスターを丁寧にバルーンに貼っている人が何気に目に入り、私はごく自然に「デモですか?」と声をかけたのですが、意気投合とまではいきませんが、私たちはそのまま言葉を交わしながら、まだ見ぬデモの中心地を目指して一緒に歩くことになりました。
中心地に近づくにつれ、街にはさまざまな記号が溢れた旗やのぼりがはためき、公園では子どもたちがシャボン玉を追いかけて笑い声を上げています。 遠くからはロックバンドの重厚なギターやドラムの音。それはまるで夏フェスの会場に迷い込んだような、あるいはどこか別の場所へピクニックにでも来たような錯覚を私に抱かせます。
青空に溶けていくロックの重低音を聞きながら、私は思いました。 こうした祝祭的な〝エクリチュール〟こそが、硬直した社会に風穴を開けるのではないか、と。
しかし、現実というものはいつだって多層的で、不透明なものです。 帰り道、私は行きつけの近所の焼き鳥屋に寄り、冷えたビールを一杯やることにしました。 そこで店主と少しばかり口論になってしまったのです。 彼は私と違う意見の持ち主で、私の行動は彼にとって受け入れがたい「異物」だったのでしょう。
ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』(ミシェル・フーコー/新潮社)において、近代社会の本質を「監視」と「規律」に見出しました。 権力は目に見える暴力ではなく、人々の相互監視や、内面化された視線によって秩序を維持しようとします。 焼き鳥屋のカウンターで店主と私が交わしたひりひりとした視線の対立は、まさに社会の至る所に張り巡らされた、目に見えない監獄の壁が顕在化した瞬間だったのかもしれません。 私たちは自由な青空の下で声を上げたはずですが、日常に戻ればまた、誰かの引いた境界線の中に閉じ込められてしまうのです。
家に帰り着くと、チャーリーはいつものように私の足元に擦り寄ってきました。 彼には政治も、監視の視線も、焼き鳥屋での不毛な対立も関係ありません。 彼の喉を鳴らす音を聞きながら、私はようやく一日の緊張から解放されます。
「今夜は鳥の胸肉? それともササミにする !? 」
私の焼き鳥屋の親父のような問いかけにだけは、監視も規律も存在しません。 そこにあるのは、ただ純粋な生の〝エクリチュール〟だけなのです。 あっ、どうも。 岩崎(チャーリーの飼い主)です。
0コメント