にゃんにゃん探偵チャーリーの冒険 ~ザ・ゲーム~・第18話 『逃亡、テクスト、そして膝の上のぬくもり』

 デジタル監視とマイナンバーの網が都市を覆い尽くし、あらゆる行動がアルゴリズムによって記録・分類される現代社会は、まさにミシェル・フーコーが警鐘を鳴らしたパノプティコンの完成形であり、フランツ・カフカの『城』が描いた、どこへも辿り着けず、姿なきシステムに個がすり潰されていく不条理なディストピアそのものです。窓の外に広がる不気味な不夜城の明かりを見つめていると、かつて僕たちが確かに持っていたはずの、曖昧で、だからこそ愛おしかった余白のような時間が、音もなく奪われていく切なさに胸が締めつけられます。

 この窒息しそうな管理社会から逃れ、僕たちが失われた個の尊厳を取り戻すための第一歩は、権力が押し付ける優等生的な「正しさ」を捨て、より個人的で切実な快楽を抱きしめることにあるかもしれません。ジャン・ジュネが『泥棒日記』で国家の法や道徳を軽蔑してみせ、裏社会の汚濁を美しく聖なるものへと反転させたように。あるいはライナー・マリア・リルケが『マルテの手記』において孤独と恐怖の果てに「見ることを学んでいる」と静かに語り、生の根源的な手触りを愛おしんだように。ジョルジュ・バタイユが『マダム・エドワルダ』で描いたエロスと死の深淵における至福の瞬間のごとく、権力が決して介入できない極私的で過剰な歓喜の中にこそ、僕たちの真の自由が哀しくも鮮やかに光り輝いているのかもしれません。

 しかし、世界がどれほど無機質な管理と狂気に塗れようと、僕たちは再生の可能性と希望を手放すわけにはいきません。ガルシア=マルケスが『コレラの時代の愛』で描いた、幾多の年月と不条理を超えて実を結ぶ「五十一年九ヵ月と四日」におよぶ切なくも不屈の愛の記憶。そしてオルハン・パムクの『わたしの名は赤』で「赤」自身が語る、「わたしは赤。なんと幸せなことだろう! わたしは燃えあがり、耳をすまし、満ちあふれる。わたしは隠さない」という、世界を豊かな色彩と生命の歓喜で染め上げる力強い言葉。権力がどれほど世界を灰色に塗り潰そうと、僕たちの胸の奥深くで燃える熱情の赤までを奪い去ることなどできはしないのだから。

 夕方、自宅のデスクで分厚い書籍の山と向き合い、膨大なテクストの海から顔を上げると、部屋のすみに置かれたクッションの上で、チャーリーが静かな寝息を立てながら丸くなっています。

 国家のあらゆる監視カメラも、完璧な管理アルゴリズムも、この小さな猫が見せる気まぐれな無防備さと、僕と彼との間にだけ流れる、密やかで少し寂しい愛おしさを捉えることはできないでしょう。狂暴なディストピアの目と鼻の先で、僕は膝の上のぬくもりという絶対的なリアルを抱きしめ、二度と戻らないこのかけがえのない夜を過ごします。今夜も色鮮やかな生の歓喜と再生の願いを込めて、チャーリーとともに静かにグラスを傾けるとしましょう。あっ、どうも。岩崎(チャーリーの飼い主)です。

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