まずは、僕が最近読み返したあるテクストを読んでみてください。
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いやしくも政治を行う者は、市民に堕落の極致をつくらせるように政府を導いて行かねばならぬ。市民のひとりひとりが放蕩の快楽に毒されて、腑抜けになってしまえば、どんな圧政を加えられても感じなくなり、みずから気づくことなく、圧政に押しひしがれる。従って、市民を堕落させ得るようなあらゆる手段を、何百倍にもふやすことなどだ。
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同じ本から、別の場面も続けて引用します。
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だいたい国家の人間で、自分の快楽の代償を国家に支払わせることの出来ないような人間は、よほどの馬鹿か気違いだろう。わしらの情欲が満たされさえすれば、人民の貧困なんぞどうでもよいことではないか?
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しかし、たとえ五百人の供述者がいたとしても、おれたちの権勢は彼らをぢぢみあがらせるのに十分だったろう。この権勢たるや、ジュリエット、まことに大したものだよ。おれとサン・フォンは、どんな極悪人をも一瞬にして断頭台から救い出し、どんな善人をも一瞬にして断頭台へのぼらせることが、二つながら可能な力をもっているのだ。
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念のために言っておきますけど、これは現政権や、日本の保守政治家たちの言動をそのままなぞったルポタージュではありません。特定の政治家やカルトの告発記事でもありません。これは、マルキ・ド・サド著、澁澤龍彦訳、現代思潮社刊の小説『悪徳の栄え』です。
一九六〇年、この本は刑法一七五条の「わいせつ文書」に該当するとして押収され、翌年、翻訳者の澁澤と、版元である現代思潮社の社長・石井恭二が起訴されました。長い裁判の末、一九六九年に有罪判決が確定しました。言葉そのものが罪として裁かれたわけです。
けれど、現代の現実世界を見渡してみると、どうでしょう。市民から思考と力を奪い、自分たちの快楽の代償を国家に支払わせ、権力によって善悪の基準さえ自在に操る。『悪徳の栄え』が描いた権力者の姿は、現代の政治にも不気味なほど重なって見えます。裏金問題やカルト教団との関係を問われた政治家たちが、十分な責任を取らないまま権力の座に居続ける光景は、その一例ではないでしょうか。フィクションの猥褻表現には法の手が伸びるのに、現実の政治家たちが振るう醜悪な暴虐や汚職は「制度」や「政治資金」という透明な言葉で不問に付される。世界は狂った鏡のように、善と悪の輪郭をあべこべに映し出しています。
世界のシステムがどれほど不条理と悪意に満ちていようと、僕たちはその歪んだ鏡の前に屈するわけにはいきません。
夜、部屋の明かりを小さく落とすと、チャーリーが静かな足取りで寄ってきて、僕の膝の上にそのあたたかな体を預けてきます。
彼はサドの語る悪徳にも、裁判の判決文にも、政治家の見苦しい弁明にも一切関心がありません。世界がどんなに恐ろしい形式に変貌しようと、僕は膝の上の静けさを守り、この小さな命と過ごす、誰にも奪えない時間を慈しみながら、今夜も一杯やっちゃいます。あっ、どうも。岩崎(チャーリーの飼い主)です。
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