90年代、ターザン山本編集長率いる『週刊プロレス』は「新日本プロレスは地方興業で手を抜いている」といった論陣を張り物議を醸していました。確かにそのマッチメークは、TVマッチと比べると段落ちした感は否めませんでしたし、試合内容はやっつけ仕事感が否めませんでした。ただ、地方のファン心理としては「おらが村にスーパースターのアントニオ猪木が来て、必殺技の〝延髄斬り〟を見せてくれた」。その現象に対してだけは、ファンはガッカリ感を忘れ、超絶な多幸感を感じていたのではないでしょうか。
どうしても興業会社としては(興業会社であるが故に)TVマッチの様な〝ドル箱カード〟を年がら年中マッチメークして、アングルの賞味期限が短くなってしまうのは困りもんです(一方の雄である全日本プロレスは、地方でも手を抜かない〝生〟で〝硬い〟ファイトを展開し、ファンに支持されていましたが)。
私は先日、SOMPO美術館で催されている『ゴッホと静物画』展に行ってきたのですが、何か既視感を感じ、夜も寝ないで考えていたのですが「ゴッホの『ひまわり』は〝延髄斬り〟だったんだ!」 ということに気がついてしまいました。
はっきり言って『ゴッホと~』展は、私が今年見たアート展で一番ガッカリ感を感じました。しかし、そんなガッカリした精神状態でもあるにも関わらず『ひまわり』は、それを見た瞬間に(条件反射の様に)カタルシスを感じてしまうのです。世界に4点現存する『ひまわり』のうちの1点はSOMPO美術館が所有し、年がら年中展示しているので、見ようと思えばいつでも見れるのでしょうが、やはり『ひまわり』は延髄斬り。何度見ても多幸感に導かれます(すなわち、もし『ひまわり』がなければ興行として成り立っていなかったと言えますし、『ひまわり』ありきの興行感が否めませんでした)。
もし私に延髄斬りや『ひまわり』の様な必殺技があれば、もっと上手に世渡りできたのかもしれないし、もっと人に喜ばれる人になれたのかもな~ なんて思いましたが、私の人生は常にカウントギリギリ2.9。ネバーギブアップの精神で生きていくしかないのでしょうね。あっ、どうも岩崎(チャーリーの飼い主)です。
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