ニュースの中では、今日もどこかの誰かが「国民の理解」という、重さも実体もないものを、粘土細工のように一生懸命こね回しています。彼らが差し出すグラフや図解、そして自信に満ちた答弁。それらはたいてい、複雑すぎる現実を、自分たちが扱いやすい大きさに切り取った「模型」にすぎません。しかもその模型、だいたい作り方を間違えているのが困りものです。
本来、良い模型というのは、現実の形式ときれいに重なり合っているものです。せめて、どこを省略し、どこを誇張したのかが分かる程度には、正直であってほしい。けれど彼らの掲げる模型はあまりに雑で、私たちが日々触れている現実とは、どこか致命的にズレています。その歪みに、当の本人たちが無自覚でいるように見えるのが、なおさら厄介なのです。
一方、私の膝の上では、チャーリーが「そろそろ晩酌の時間ですよ」という事態を、驚くほど端正に表現しています。私の前に座り、視線を外さずに見つめる。この簡潔で無駄のない表現形態。そこには黒塗りの報告書のような隠し事も、都合の悪い数字の書き換えもありません。チャーリーという事態の成立と、その表現としてのキュートな仕草は、まるで長年連れ添った恋人同士のように、ぴたりと噛み合っています。
政治家たちが「適切に対応する」と口にするとき、その言葉の形と彼らの腹の内が一致しているかを確かめるのは、もはや至難の業です。多くの場合、それは現実を写し取った図面というより、ノイズの多い抽象画に近い。どれほど勇ましい言葉で未来を語られても、その形式が私たちの生活感覚から浮いている限り、それは空中に描かれたラブレターのようなものです。情熱はあっても、宛先がよく分からない。
チャーリーは、ニュースの中で延々と続く「言葉の迷宮」には、一切関心を示しません。彼にとっての世界は、常に誠実な一対一対応でできています。「晩酌の時間」という事がらは、「チャーリーが満足する」という事実へ、驚くほど真っ直ぐにつながっています。
嘘や虚飾に満ちた社会の模型を眺めて疲れたとき、私はチャーリーを見ることにしています。複雑な説明は必要ありません。そこには、今の私がいちばん信じられる「世界の正しい形」がある気がするのです。
新しい年、世の中の模型がこれ以上いびつにならないことを願いつつ。とりあえず僕は、チャーリーが示すキュートな仕草に従って、キッチンへ向かうことにします。こういう呼びかけには、裏切られる心配がありませんから。あっ、どうも岩崎(チャーリーの飼い主)です。
0コメント