「〇〇ならば●●である」。この条件命題は、「p ⊃ q」という記号で表されます。p と q はそれぞれ「要素命題」と呼ばれ、それらをつなぐ「⊃」という記号が、「論理定項」となります。
この命題全体が「真」か「偽」かは、実は以下の4通りの組み合わせから、機械的に導き出すことができます。
さて、ここから少し、「ウソのようでいて、本当に論理的な話」をしましょう。
この表をよく眺めていると、ある奇妙な事実に気づきます。前提である p が「偽」である場合、結論の q が真であろうと偽であろうと、命題全体(p ⊃ q)は論理的には「真」として扱われてしまうのです。
この奇妙さを、最近の永田町の空気に重ねて考えてみましょう。
たとえば、ある政治家が「『経済が再生する』ならば『増税はしない』」という公約を掲げたとします。これを先ほどの表に当てはめると、次のようになります。
- 経済が再生し、増税もしない:文句なしに「真」です。約束が果たされた幸福な状態です。
- 経済は再生しなかったが、増税はしない:これも「真」になります。前提が崩れた以上、約束は破られていないと解釈されます。
- 経済が再生したのに、また増税を強行する:これは明確な「偽」、つまり嘘です。論理の構造が破綻しています。
- 経済は再生せず、その上また増税する:驚くべきことに、論理的には、これは「真」として成立します。
つまり、前提となる「経済が再生する」という条件がそもそも嘘である限り、その後に増税しようがしまいが、この公約は「偽」にはならないのです。つまり、嘘をついたもの勝ちみたいなもんです。政治家のインチキ臭い嘘がまかり通るならば、その公約の意味とは一体何なのでしょうか?
最近のニュースを眺めていると、解散だ、信任だ、説明責任だと、威勢のいい言葉だけが先に走っているように見えます。「国民の理解を得る」「信を問う」といったフレーズが繰り返されますが、その前提となる状況説明は、なぜかいつも曖昧なままです。
もし、その前提自体が最初から成立していない――つまり「偽」の要素命題だったとしたらどうなるのでしょうか。どれほど都合のいい結論が導かれても、「論理的には間違っていない」という顔をされ、私たちは相変わらず言葉だけが増殖する迷路の中を歩かされることになります。説明はされた、しかし納得はしていない。そんな状態だけが、きれいに温存されていくのです。
そんな私の横で、チャーリーは大きな欠伸をひとつしています。彼の世界では、「晩酌するならば、満足する」という命題は、前提(p)も結論(q)も常に真である、きわめて健全な〈第1行目〉で完結しています。前提をぼかして結論だけを守ろうとする必要もなければ、「丁寧な説明」という名の回り道もありません。
前提を偽にすることで、どんな結論でも正当化できる――そんな器用で不誠実な論理を操る生き物は、どうやら自称保守系(統一教会系)の政治家だけのようです。少なくとも、チャーリーは空腹を理由に世界を誤魔化したりはしないのですから。
さて、チャーリー。「私がキッチンへ行くならば、君の皿は満たされる」。
この命題を第1行目の「真」にするために、そろそろ席を立つことにしましょうか。 あっ、どうも、岩崎(チャーリーの飼い主)です。
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