にゃんにゃん探偵チャーリーの冒険   ~ファクト・第5話『私の言語の限界が世界の限界を示している』~

 他のどの文化圏や、生活圏からも、完全に孤立した生活を送っている部族がいたとします。仮に、その部族を「A族」と呼びましょう。そして、そのA族の行動範囲には猫が生息していないとします。

 するとA族の人たちには、これまで一度も、そしてこれからも、猫とそれ以外の生き物を差異化する事態が生じません。その結果、「猫」という概念が生まれる余地がなくなります。

 概念がなければ、「猫」に対応する言葉(名)も生まれませんし、名がない以上、猫について考えることもできません。

 これはどういうことかというと、A族の世界には『猫は存在していない』ということになります。存在していないというより、そもそも猫について志向すること自体がない、という状態です。

 なぜなら、人間は頭の中で、言葉を使ってものを考えるからです。

 分かりやすい例を挙げるなら、「ゆるキャラ」という言葉(概念)が生まれなかった世界では、私たちは「ゆるキャラ」について考えることのないまま、別の世界線を生きていたはずです。

 人間は、自分の中にストックしている言葉の範囲でのみ、それらを組み合わせ、さまざまな可能性について考えることができます。たとえ対象の正式な名前を知らなくても、「あの赤いやつ」や「塩っぱいアレ」といった、自分なりの記号を用いることで、その対象について思考することは可能です。

 それゆえ、私が思考できる範囲――すなわち『私の言語の限界』こそが、私の『世界の限界』に他なりません。

 これはいわゆる独我論の考え方です。しかし、A族が猫を知らなくても、猫はA族の思考とは独立して、世界の内側に存在している〝はず〟です。同じように、主体である私の認識とは無関係に、あなたもまた私の認識から独立して存在している〝はず〟です(語ることはできなくても、示されている)。

 つまり、今これを読んでいるあなたは、世界のどこかで――たとえ私があなたを認識していなくても――存在している〝はず〟なのです。この〝はず〟が、決定なのか可能性なのかは、ひとまず判断を保留しておきましょう。

 ただ、可能性がある以上、その可能性が成立する余地もまた存在します。それが良い結果をもたらすにせよ、悪い結果をもたらすにせよ、世界を根本から変えることができなかったとしても、可能性がある限り、人は自分の意思で世界に関わる〝べき〟だと、私は考えてしまいます。

 ただぼんやりと、鼻くそをほじりながら、生かされるままに生きるよりも、軍国主義に反対したり、差別に異議を唱えたり、自分の意思で世界に関わる〝べき〟だと、どうしても考えてしまうのです。この〝べき〟が決定なのか可能性なのかも、やはり判断は保留ですが。

 たとえその表現が、アートや詩といった抽象的な形であったとしても、それが世界(少なくとも、主体たる私(や、あなた)の世界)を、ほんの少し明るくしたり、あるいは暗くしたりすることくらいは可能な〝はず〟です。

 ……なんて、少し熱くなりすぎましたね。

 隣ではチャーリーが、私の「言語の限界」などどこ吹く風といった様子で、実に気持ちよさそうな寝息を立てています。その姿を見て、つい自分勝手な使命感に駆られてしまったことに気づきました。あっ、どうも、岩崎(チャーリーの飼い主)です。


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