かつて僕は、ジョージ・オーウェルの『1984年』やオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』を、どこか遠い未来の不気味なフィクションとして読んでいました。けれど、いま僕たちが生きているこの世界を見渡してみると、それらのディストピアはすでにフィクションの皮を脱ぎ捨て、現実のシステムとして完成しつつあることに気づかされます。個人情報の売却や監視システムの強化はまさに『1984年』のビッグブラザーそのものだし、市民から思考力を奪い、単純労働と浅薄な娯楽の中に閉じ込めておく構造さえ、形を変えながら再現されているからです。
さらに恐ろしいのは、環境破壊や戦火が絶えない地球上で、特権階級のためだけの「隔離されたコミューン」が作られつつあることです。イーロン・マスクたちが夢見る火星移住計画を引き合いに出すまでもなく、最新のテクノロジーを使えば、汚染された下界の惨状から遮断された快適な楽園を地球上に作り出すことさえ、彼らにとっては難しいことではないでしょう。そこで生まれ育った人々は、一歩も外に出ない限り、生まれながらにして圧倒的な支配者であり続けることができます。つまり、彼らにとっては環境が破壊されようとも、戦争が起きようとも、楽園作り、運営の資金集めに都合がいいなら、それらの悲劇など屁とも思っていないのではないでしょうか。
では、その《すばらしい新世界》のシェルターには、一体誰が入れるのでしょう? 僕はスタンリー・キューブリックの映画『博士の異常な愛情』に登場する、地下シェルターをめぐる議論を思い出さずにはいられません。核戦争で地球が滅びゆく直前、政府の男たちは、そこに誰を避難させるかを真顔で議論します。そこで議論されるのは、指導者的な立場にある男性と、人類を存続させるために「性的魅力」を備えた女性たちによる、シェルター内での新たな人類の再生産でした。現代の政治家や巨大資本家たちが夢見るものの中にも、まさにこの優生思想的な「選ばれた者だけのシェルター」が見え隠れしているのではないでしょうか。平時には「国民の命を守る」と言いながら、危機が訪れれば真っ先に市民を切り捨て、自分たちだけ不透明な箱へ逃げ込む。それこそが彼らの隠された本性なのでしょう。
もちろん、支配者たちの「選ばれた者のシェルター」に、僕やチャーリーが入る隙間など最初から存在しません。けれど、そんな不快な場所に招待されたいとも思わないのです。画面の中で進行するディストピアの完成を横目に、僕は僕の「選ばれなかった下界」で、チャーリーとの晩酌の時間を守り、冷えたビールを飲んでいます。
支配者たちがどれほど高慢な笑みを浮かべようと、僕の膝の上で毛玉となって眠るチャーリーの圧倒的な体温と毛並みだけは、彼らのテクノロジーでも絶対に奪うことはできません。今夜ももふもふした毛玉を撫でながら、ささやかな抵抗の乾杯をすることにします。あっ、どうも。岩崎(チャーリーの飼い主)です。
0コメント