ファシストが選ばれました。地獄の扉が開かれたかのように。これからは先の戦争中のように、ファシストに媚びへつらう者がわらわらと湧いて出てくる事でしょう。国民は誰が誰に媚び出したか観察する。そうする事により、(そのヤバさに)早く気が付くことができる。そんな事が今後大切になっていくでしょう。ファシストがスパイ防止法などの法案を通す前に、多くの人が気づく事を願ってやまないです。
さて、自民党の総裁選というものを、少し距離をとって眺めてみますと、まるで「部族長を選ぶための儀式」のように映ります。そう考えると、この国の政治がどれほど都合よく回され、どれほど前近代的な構造に縛られているか、つい透けて見えてしまうのです。
いわゆる「派閥」と呼ばれるものは、平たく言えば、既得権益を手放さない親戚一同の集まり、つまり〝部族〟です。そして、その上に座る「長老」たちは、票という秘伝の〝呪具〟を握りしめながら、利権の分け前を交渉しあっています。
彼らが水面下で交わす密約や根回しは、外から見れば神秘的な〝密儀〟のように見せかけられるかもしれませんが、実態はただの年寄りたちの閉ざされた密談に過ぎません。私たち一般人は、その結果だけを押し付けられて、「次の族長はこの人です」と告げられる。それは民主主義というより、八百長に近いものです。
討論会や政策発表はどうでしょう。候補者たちが語るその言葉は、形式的な「宣誓の儀式」のように響きます。ですが、誰も本気で中身を聞いてはいません。重視されるのは世襲という「血筋の正統性」や、「威厳」という名の仮面ばかりです。
そして結局のところ、時代が厳しさを増せば増すほど、不思議と常軌を逸した人物が救世主のように選ばれてしまうのです。まるで古代の狂気のシャーマンのように、自らの言葉を自覚することもなく、あるいは虚言にすら浸りきってしまうような存在です。そうした姿に、大衆はどうしても惹きつけられてしまいます。ヒットラーが支持された様に。そこに酔いしれるのは簡単ですが、やがて後悔するのもまた、私たちです。
結局のところ、一度そうした狂気に政治を委ね、手痛い失敗を経験するまで、私たちは自分の頭で考えることを学ばないのでしょう。丁寧に言えば「学びの過程」とも呼べますが、実際にはただの繰り返しであり、少々バカバカしいサイクルです。けれども、それがこの国の現実だとしたら… 絶望するしかありませんね。あっ、どうも岩崎(チャーリーの飼い主)です。
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