オルハン・パムク著【赤い髪の女】(早川書房)を読んで

 ノーベル文学賞作家の本を読むのは何かちょっと恥ずかしいです。なぜ恥ずかしいのかを夜も寝ないで考えたのですが、その権威に裏付けされた読書行為が『ベタ』だからではないでしょうか。カウンターカルチャーの代表格であるボブ・デュランが受賞を固辞し、雲隠れした件以降なおさら読むのが恥ずかしくなった気がします。でもあえて言おう!「ベタでもいいじゃない、面白ければ!」あっ、どうも岩埼(男の方)です。

 というわけで、今回ご紹介させていただく本はノーベル文学賞作家オルハン・パムクの【赤い髪の女】(早川書房)という本です。

 まずは軽~くあらすじを↓

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 1980年代のイスタンブール。主人公(ジェム)の父親がある夜突然失踪する。作家志望のジェムは進学費用を稼ぐために井戸掘り職人の親方に期間限定で弟子入りする事に。人情味ある親方にジェムは父性に似たものを感じる様になるのだが、ドサ回り劇団の看板女優 “赤い髪の女” が出現して以降ジェムと親方の間には微妙な空気が漂いはじめ、ジェムはある “事件” を起こす…。それから20年、30年と過ぎ、ジェムは建築会社の社長として成功し、親方や赤い髪の女と過ごした一夏も遠い記憶になるはずだったのだが…。

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 どうでしょうか? あらすじだけ見るとチープなメロドラマ(ベタ)に感じる方もいる事でしょうが、【赤い髪の女】は文体にケレン味がなく、過剰なドラマティック表現を避けているので、あまり俗っぽさ(ベタ)を感じさせません(念を押しますが、面白ければベタでもいいんですけど)。

 さらに『ドサ回り劇団』『人力のみで作業する井戸掘り』『徒弟制度』という前近代的な舞台設定が、物語全体を「ほんの~り」としたお伽噺の様な雰囲気に包み込んでいます。この雰囲気が実は悪魔的で、寝る前にベッドで猫とイチャイチャしながら読める位のお伽噺感なので、ついつい読書時間を延長してしまい、「明日、仕事忙しくなかったっけ? でも、まぁ、もう少し…」という『娑婆のルール無視』な事態に陥らせてしまうのです! その「何とな~く 幸せを感じれる時間」が世の読書人間を寝不足に誘う悪魔的装置になっているのですよー! 危ないですよー! ちなみに僕も一夜で一気読みしてしまって、もちろん寝不足でスクランブルな状態でございます…。

 また、随所にメタファーとして散りばめられている『オイディプス(ギリシャ神話・父王殺し)』vs.『王書(イランの民族叙事詩・息子殺し)』や『西洋的世俗主義』vs.『イスラム的保守主義』といったアナロジーが物語のコントラストを浮き彫りにしているのも特徴です。さらに、第1部、第2部がジェムの一人称で書かれ、第3部が赤い髪の女の独白として書かれているという多重構造も物語に厚みを感じさせるファクターになっているかと思われます。「ほんの~り」感で始まり、ラストに向かって「ギンギン」感が増していくというストーリー展開なので、そりゃ誰でも一気読みしてしまいますわい。

 最後に、ちょっとしたタネあかしになってしまいますが、『オイディプス』をモチーフにした作品群の中には、精神分析の分野でフロイトが提唱した『エディプス・コンプレックス』を取り入れる作品が多いのですが、【赤い髪の女】ではフロイト(西洋近代医学)の事に触れていないのがお伽噺の様な雰囲気を醸し出している要因ですし、他の『オイディプス』(ベタ)作品との差別化になっていると思われます。フロイトを持ち出すと、どうしても物語が理屈っぽくなってしまうんですよね~。


 西洋近代化が押し進む前、例えば戦後日本の闇市などでも『ふしだら』でも 『たくましく』 生きぬいた “赤い髪の女” はいた事でしょう。それは神話的にいえば『豊穣と多産の女神=大いなる母性』といえます。しかし、その様な女神(大地母神)は洋の東西を問わず多くの供物(や生贄)を要求するものです。現代の多くの日本人男性にみえる『 “黒髪” & “純白パンツ” 信仰』は『大いなる母性』に対するカウンターとして潜在的に生まれた現代神話なのかもしれません。その潜在的信者の総称が『草食系』という事なのでしょうね~。

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