nozomi

企画者です。
面白そうかと思って始めたのですが、ウェブ作成ツールが非常に使いにくく、往生しています。また、このサイト自体、成立してしまえば『企画者』の手は離れていると思うのですが……。どうでしょう。
もともと副業でライターを務めたことがあり、その際にTwitterなどにも手を出してしまったため、このたび『サブセレ』として認定されました。
頑張っていきたいと思います。

記事一覧(29)

夢を見ている 〜ジュンと僕の物語19

「なあ、こないだ話しただろ。夢のなかで死んだら、どうなるんだろうって」小学五年生のジュンが、僕の机に腰掛けて言った。「昨日の夜、『いま夢を見てるな』って気づいたんだ。だから俺、ビルから飛び降りた。だけど死ねなかったよ」「そりゃあ、死んだことがないからな」夢は実験場ではない。記憶の反芻に過ぎない。そもそも僕は、死後の世界など信じていなかった。前世も来世も天国も地獄も、不要。死は無。長くとも短くとも、生だけで充分だ。小学一年生で嫌われたと感じて、四年間、ジュンとは遊ばなかった。だが、その間もジュンの母親は我が家を度々訪れていた。僕の母は「粗茶です」と最低限のもてなしはしていたものの、歓迎しているようではなかった。ジュンの母親は、決まって冊子や本を残していった。一軍から嫌がらせをされていた頃。駅へ向かう僕を呼びとめ、ジュンは同じ種類の本をよこした。誘ったのではない。僕を救いたい一心だったのだろう。家庭科室の食器や調理器具は、偽物じみている。書割の台所。僕は辟易しながら、ボウルに入った小麦粉と卵と砂糖と豆乳と、おからを混ぜていた。『おからのケーキ』。カレーやオムライスのように、刃物や火を使う献立ではない。危険はない、はずだった。隣にいたジュンが、ふっと静止した。たちまち四肢を伸びきらせ、硬直し、痙攣し、崩れ落ちる。万有引力が、作業台とジュンの頭を叩き併せた。鈍く鋭い、柔らかく硬い、頭髪、頭皮、頭蓋骨の和音。それまでで、最も激しい発作だった。僕はボウルを落とした。アイボリー色の粘液をぶちまけた。周囲はパニックになっていたようだが、僕だけが別の空間に放られたようだった。超高速で、思考と感情が逆巻く。なんで? 薬を飲んでいたはずなのに。いま、頭を打ったよな。出血は? 見えないけれど、内出血を起こしているかもしれない。そのまえに、舌を噛まないようにしなきゃ。どうやって? 無理だ。怖い。そうだ、サワコ先生を呼ぼう。先生は俺の出血を止めてくれた。俺の二の腕を掴んだのは止血のためだ。先生なら、助けてくれる。渡された本に書いてあった。出血はダメだ。出血したら、ジュンは輸血を受けられない。戒律で、禁じられている。床で仰向けになっているジュンを視界に捉えながら、指一本、動かせないまま。何秒、何分が経過したのかも判らなかった。「どけ、邪魔だ」駆けつけた体育のコイデが僕を押しのけ、ジュンの口にタオルを押し込んだ。目を醒ましたジュンは、いつもの発作と同じように前後の記憶を失くしていた。束の間の闇と、無。

救いの糸 〜ジュンと僕の物語18

仰げば尊し、我が師の恩。式のあと、最後のホームルームを終え、校庭に出た。担任教諭に思い入れはない。ただ、彼の面立ちは個性的だった。僕は、買ったばかりのアクリル絵具で彼の肖像画を描き、裏に級友らの寄せ書きを集めた。一軍連中も快く寄せ書きに応じてくれたことが、意外だった。最後まで冷戦を続けた一軍と僕だが、今日でお別れ。笑顔でサヨナラだ。卒業、おめでとう。マン研顧問のスギちゃんとは、ろくに挨拶もできなかった。だが、演劇部顧問だったサワコ先生からは特別に声をかけられた。「あなたは俳優になれると思ったのよ」中学時代の僕は表情に乏しく、何を言われても大きなリアクションを返したことがない。それでも、このときばかりは「はあっ?」と聞き返した。サワコ先生とは、演劇部退部を巡って衝突した。中二の頃だ。「途中退部は許されない」と言う彼女に「無理強いはできないはずだ」と、口答えをした。結果的に退部は許されたのだが、なにかが僕の癇に障った。その後も、サワコ先生が教鞭をとる『生物』の授業は仏頂面で通した。採点を巡って食ってかかったこともある。「私はね、医者になるはずだったの。だから歩くのが早いのよ。医者はいつだって急いでいるからね」だったら医者になればよかったのに、と脳内で毒づいた。中三になってから、だろうか。美術の授業中に、僕は彫刻刀で指を切った。薬指から手頸まで血が流れて、女子生徒が悲鳴をあげた。技術の教師は糸鋸で指ごと失くしたのだから、比べれば大したこともないだろう。ひとり、保健室に向かう間も慌てていなかった。薄暗い廊下から、陽射しのなかへ。渡り廊下のまんなかで、サワコ先生と出くわす。「心臓より上に」「え」「傷口を、心臓より上にあげて」明瞭で、凛とした声だった。先生は僕の二の腕を強く掴み、そのまま保健室まで付き添った。そして卒業後、先生と僕は一昨年まで文通を続けた。生意気なクソガキだった僕に、彼女は途切れることなく手紙をくれた。最後に受け取った手紙は、『夫を喪くした悲しみが癒えない』というような文面だった。夫については、それまでにも何度か認められている。『医者だった夫は治らないとわかっていたから、緩和だけを望みました。あしかがフラワーパークの大藤棚の下を、ふたりで歩いたのが忘れられません』僕の憶測に過ぎないのだが…… 医者を目指していたとき、ふたりは出会ったのだろう。医者になるには時間と金がかかる。教師の給料で、彼女は夫を支えたのではないか。それで、自らの夢を諦めたのではないか。そういう愛とかが、僕には欠落している。その点で先生は幸せだとも言える。それだけに喪失は大きいだろう。考えだすと、どう返信したものか解らなくなった。そうして、文通は途絶えてしまった。僕は、慰めることが不得意だ。ほんとうにヘタクソだ。いま思えば、ジュンにもそういうところがあった。

受験合否の境界線 〜ジュンと僕の物語17

中学三年生の二学期以降は、肋のしたの疼痛に支配されている。担任教諭は「ひとりとして中卒者を出したことがない」というのが誇りで、級友全員に一段下の高校を志望するよう勧めていた。鶏口となるも牛後となるなかれ。有名校のドンジリより二流校の首席。挑戦はするな。僕もまた、諭された。「合格は絶対じゃない。どうしてもと言うならコネを作れ」と。結果、滑り止めのランクを絶対安全圏に置くことにした。スポーツ推薦を受けられるような校風ではない。部活も委員会も、三年生になったら引退。受験、受験、受験。合格か不合格か。勝ちか負けか。二月の寒い朝。第一志望校の教室へ足を踏み入れ、受験番号が貼られた席に着く。在校生が削ってくれた新品の鉛筆が三本、消しゴムが机上に並ぶ。心拍数があがる。開始のベルが鳴るまで、誰もが心細さを覚えている。知り合いの顔が見たいか? 見ないほうがよかった。「おう、おまえもここを受けるのか」出くわしたのは、クリーニング屋のユウキだった。相変わらず、僕よりもジュンとの距離が近い男。どうしたって、(ある理由から) 僕が超えられない壁。彼は屈託なく微笑んだ。「お互い、頑張ろうな」僕は歪に口角を上げ、痙攣に近く頷いた。間もなくして、開始のベルが鳴った。

琉球の海 〜ジュンと僕の物語15

中学三年生になって、ようやくジュンと僕は同じクラスになれた。一年生から一緒だったミツキも、だ。もしかしたら、教師の計らいかもしれない。問題は起こしたものの、僕は出版委員長として年鑑の編集という大仕事を終えた。もはや学校は楽しむ場で、主戦場は放課後の塾となる。全国模試で、どこまで順位と偏差値を上げられるのか。勝負だ。ミツキと僕は私立高校を受けるため、同じ塾に通っていた。塾の講師はおもむろに「十三年蝉を知っているか」と、演説を始める。「十三年間を土のなかで過ごし、羽化して一週間、鳴き続ける。受験はその一週間なんだよ」その後、十五年蝉大発生のニュースを見たのだが、揚げて食べると美味らしい。リポーターが恐る恐る口に運び、「うん、トロのようにコッテリしています」と言っていた。なんのための十五年間だったのだろう。塾のあと、午後の十時まで家庭教師がつく。志望校合格は、まず間違いない。夏休みは、ジュンと卒業旅行へ行きたかった。「二泊か三泊でいい。沖縄に行こう。トオルに会いに行こう」受験とは無関係に、ジュンは首を横に振った。「去年、青森に行っただろ。そんな金ないよ」「旅費ならウチで工面できる。トオルの家に泊まるから、ホテルは要らないし。心配するな」苦い顔をしながらも、ようやくジュンが同意した。沖縄へ行く。ミツキはトオルと面識がなかったし、東京で夏期講習を続けることになっていた。机を並べ、数式を解いているときに彼がこぼした。「俺の成績で入れる公立、ないんだ。塾にも通ってるのに」なにが問題なのか、僕には解らなかった。「私立に行けるなら、私立でいいだろ」「受ける高校は私立で、かなり遠いんだよ。学費と交通費、親に返さなきゃならない」親に金を返す。その発想も不可解だった。「親だって、学費は承知の上だろう」「だけど、俺が公立に行ければ全然違った。母さんは今日もパートだ」首を傾げたままの僕に、ミツキが言い放つ。「おまえみたいなヤツはさ、わかんなくていいよ。『パンがなければお菓子を食べればいいのに』って感じで、そのままでいいよ」数年後、ミツキはバイトに励み、実際に交通費を全額返済した。学費は就職後に返していた。三島から品川まで新幹線。そこから羽田に移動して、空路で那覇。初めての飛行機に、ジュンと僕は大興奮だった。CAが飛行機の模型をくれたので「俺たち、ガキに見えるのかな」と笑った。少しも落ち着かない僕らに、CAは眉根を寄せていた。二時間半のフライト、少しも退屈することがなかった。到着すると、空港でトオルが待っていた。二年以上離れていたのに、そんな感覚は全くなかった。

青い衝動 〜ジュンと僕の物語14

「俺、通訳になるわ」中学二年生。進路を決める段になって、ジュンの爆弾発言。「ネイティブの、帰国子女とかバイリンガルじゃなきゃ無理なんじゃねえの」婉曲表現だ。実際、僕が言いたかったのは「英語の成績、そこまで良くないだろ」だ。「世界を股にかけて、日本語に同時通訳するんだよ」いやだから、英語ができないとダメだろ。「おまえの親父さんは外国語ができるけどさ」と、そこまで言いかけて「ステキな夢だな」に落ち着かせた。三者面談では、いくらジュンでも現実的になるだろう。一度目の三者面談を終えて、今度はジュンの変化球。「高校、やめよう。一緒に東京に出ようぜ」「中卒で働くのか」「いや。青二塾に入るんだよ」あおにじゅく。大手声優事務所・青二プロダクションの養成所だ。「それで、声優になるのか」「うん。だから高校には行かない。親にも内緒で、いきなり東京」マジか。そりゃあラジオドラマ制作は楽しかったし、ここだけの話だが、僕の古谷徹のマネはかなり似ていたと思う。だが『中卒で声優になる』というのは、あんまりな大博打だ。「問い合わせてみてくれよ。まずはそこからだろ」「なんで俺が」と質すと「電話をかけるのが怖い。緊張する」と言う。「わかった。俺がかけるよ」僕は学校のすぐそばにある電話ボックスから、青二塾に問い合わせをした。入塾料とレッスン料に的を絞って質問をした。電話を切って、外で待っていたジュンに「四十万円だってさ」と伝えた。ジュンは少しばかり悄然として「ムリだな」と言った。そもそも、家賃や光熱費、食費のあてもない。親に内緒で上京、からの、声優修行。無理もいいところだ。あれはもう、いまから六年前のことか。おとなになった僕は、KONAMIの某コンテンツで脚本を手がけることになった。アフレコにも立ちあわせて戴いたのだが、プロの声優は凄まじい。主要キャストの技量は当然のことながら、モブを演じる新人への指示が殊更に凄まじかった。かなり血腥い内容だったので、斬られ役が多い。収録時、まだ音響効果は入っていない。刀を振る『息』のあとに、悲鳴。「とめて」そのとき、音響監督が放った言葉が頭に焼きついている。「本気で死んで。君たちはこれから収録が続くわけだから、喉を潰したくないんだよね。だけど、このキャラはここで死ぬの。だから本気で死んで」新人たちの顔が締まった。そこからは、声を割りながら、裏返しながら、彼らは阿鼻叫喚のうちに死んでいった。ト書きでは『次々に斬られて絶命』の一行だ。その一行を書いたときに、僕はここまでを想像していただろうか。「もういいよ。さがって。他のひとが入って」代わりはいる。音響監督は容赦なかった。これがプロの世界か。あのとき無理に上京せず、ほんとうによかった。そう実感した。中卒では潰しもきかない。「いまは声優を諦めるとして、高校はどうするんだ」「うちの懐事情から言って、私立には行けない」ああ、そうか。ジュンと僕の『進む路』が決定的に分岐する。そのときが、もうじきなのだ。人生が決まる。怖いし、緊張する。だからジュンは、少しだけ悪足掻きをしたのかもしれない。僕は単純に、現実を突きつければジュンの目が醒めると思っていた。「四十万円だってさ」「ムリだな」『だけど、俺たちが本気で親に話せば、解って貰えるかも』いや。僕がそう切り出したとしても「ムリだな」だ。『高校だけ行って、そのあと一緒に上京すればいいんじゃないか』その頃には、おそらく僕らの熱は冷めてしまう。やはり「ムリだな」と、ジュンは言うだろう。『これからバイトして、金を貯めて、それから……』何度シュミレーションをしても、あのときの結論は「ムリだな」の四文字に収束する。それでもよかった。もう少しだけ、悪足掻きに付きあえばよかった。もう少しだけ、子どもでいられればよかった。「お好み焼き屋になろうぜ」「十年後には広島だ」小学生だった僕らは、もういない。

スナイパーとファイヤーフライ 〜ジュンと僕の物語13

「俺、百発百中のスナイパーなんだよ」ジュンが、相変わらず大真面目に言う。「ゴキブリより小さな虫なら、俺に任せろ」六月にもなると蚊や小蝿が飛ぶようになる。僕が羽音にすら気づかぬ段階で、ぱんっと、ジュンは一発で奴らを仕留めた。どんなに素早く無軌道に飛んでも、彼の掌から逃れることはできない。本人が自称した通り、その眼差しはスナイパー。たいした集中力と動体視力だ。中学二年の夏が来て、進路指導の時期になった。三者面談、偏差値と内申書、県立と私立、志望校と滑り止め。夏休みには塾の夏期講習があり、それを済ませなくては身動きがとれない。もう八月に入っていたと思う。ジュンが、父方の郷里である青森に僕を誘った。「行く。行きたい」あの格好良い親父さんが生まれ育った家だ。どういった環境でインド留学に思い至ったのか、見てみたかった。両親の許可を得て、僕らは初めての二人旅をすることになる。僕は、記憶力にだけは自信がある。特に子ども時代のことは嫌になるくらい事細かに憶えている。だが、青森までの道中が空白だ。大量に菓子を買い込んだのは確か。空白の先で、僕らは奥入瀬渓流を望んでいた。原生林のような枝葉に覆われ、苔むした岩場に滔々と清水が流れ込んでいる。「シシガミ様がいそうだな。ジブリっぽい」僕が言うと、ジュンが合唱団の発声で歌いだした。「風の谷のぉ、ウマシカぁ」それって馬鹿だろ、と、ツッコミかけてやめた。ただ笑った。親父さんの実家は、古民家という風情だった。周囲には茅葺き屋根も点在する。宵の口、僕らは蚊帳のなかで布団に腰をおろし、マンガの話をしていた。庭先の蛙がけたたましい。負けじと僕らも声を張りあげた。突然、すぱんと襖が開く。親父さんの親父さん、つまりジュンの祖父さんだ。仏頂面だったので、僕らが煩かったのかと、叱られる準備をした。「XXX。XXXXXX」小豆色の巾着を蚊帳のなかに放って、彼は『なにか』を僕らに命じた。「わかった」とジュンが頷き、祖父さんは部屋から出て行った。僕には一語も聞き取れない、昔ながらの津軽弁だった。「おまえ、津軽弁がわかるんだな」「まあ、なんとなく。袋のなかの小銭を数えろってさ」持ちあげてみると、巾着はずっしりとしていた。五百円玉を除く硬貨が大量に溜め込まれている。十円玉は、錆の緑青に鮮やかだ。「これ、タバスコで磨くとピカピカになるんだよな」一時間以上を要して、総額六千円以上を数えた。風呂に呼ばれたので、あがってから祖父さんに報告することになった。ふと、考える。これは、ただの金勘定なのだろうか。祖父さんは最初から総額を承知で、僕らがネコババをしないか、或いは一円と違わず数えることができるか、試しているのではないか。そんなことを思いながら、湯船に浸かった。部屋で髪を拭いていると、祖父さんが巾着を取りにきた。金額を告げると、頷いて、にこりともせず去って行った。あれは一体、なんだったのだろう。もしかしたらインド哲学と通じているのかもしれない。電灯を消すと、蚊の羽音が耳を翳めた。蚊帳は吊ってあるし、蚊取り線香も炊いてある。なかなか屈強な輩らしい。「おい、スナイパー。いるぞ」出動要請に、ジュンが電灯の紐を引いた。起きあがってすぐさま、一撃で討つ。「一匹や二匹じゃないな。殺虫剤、スプレー式のやつ。借りてこようぜ」「いや。スナイパーの名にかけて、俺が殲滅する」時間がかかるだろうが。眠いのに。四匹、五匹、六匹。手を打ち続けるジュンは、踊っているようだった。弾けた腹に蓄えられていた血が、彼の掌に模様を作る。「大物、来たぞ」見ると、ジュンの規格内いっぱいいっぱい『ゴキブリよりは小さい虫』が飛んでいる。「銀蠅だってヤったからな。仕留める」「ぜんぜんデカイって。やめとけよ」ロックオン。ジュンの炯眼が標的を捉えた。両掌を鋭く合わせる。が、すんでのところで音が鳴らなかった。「あっぶねえ。殺すところだった」「なに」ジュンは僕のほうへ指の隙間を向けた。その小さな闇のなかで、蛍が光っていた。「これ、ヘイケだ。ゲンジじゃない」伊豆では、ゲンジボタルを川辺に放つ。源氏ゆかりの地だから、か。単に躯体が大きく、保護活動の対象だから、か。ヘイケはゲンジよりも小さかった。小さいながらも、煌々と瞬いていた。暫く眺めたあと、ジュンは蛍を窓外に放した。その隙に、また数匹の蚊が侵入した。スナイパーは、深夜まで手を叩き続けた。

めだまどん突破口 〜ジュンと僕の物語12

サル、ゴリラ、チンパンジー。運動会の入場行進曲は、定番の『クワイ河マーチ』だった。全校合同のリハーサル中、僕はC組を抜け出して、A組に紛れ込んだ。そして定番の替え歌である「サル、ゴリラ、チンパンジー」を頭のなかで歌っていた。隣のジュンは、声を出して歌う。「ハム、サラミ、ソーセージ」霊長類ではなく加工肉。まさかの発想だった。「なにそれ」「美味そうだろ」あれはジュンのオリジナルだったのか。それともテレビかなにかで覚えたのか。いまとなっては確認のしようがない。二年生になっても、ジュンと僕は同じクラスになれなかった。マン研をつくろう。そのアイディアを形にしなくては、またクリーニング屋のユウキに打ち負かされる。動き出せないまま、気づけばもう五月の中頃だ。顧問だけでも決めておかねばならない。職員室をうろついて、僕は社会科のスギタに目をつけた。二十代のサブカル系で、堅苦しいところもないし、なにより暇そうにしている。顧問を頼むと、二つ返事で引き受けて貰えた。
ただし、部員は五人以上集めること。それが創部の決まりだった。 ジュンと、あと三人。 部員勧誘開始。そもそも、マン研のない中学というのも珍しい。ヘタクソなチラシを配っただけで、十人ほど集まった。ニーズはあったのだ。めでたく創部が決定する。楽勝じゃないか。だが話し合ってみると、活動内容の認識に食い違いが生じ始める。マン研、つまり『マンガ研究会』の趣旨とは『マンガを研究』すること。イコール『マンガを描く』ことなのか。描きたがらない生徒もいた。インプットかアウトプットか。顧問のスギちゃんは「読むだけじゃ活動にならないよ」と言う。アウトプット必須だ。未提出者が出ることを念頭に、冊子を発行することになった。ジュンと僕は職員室のコピー機を借り、ホチキスとテープで冊子を綴じた。ぜんぶで五作品。イラスト一枚という部員も二人いて、それは実に薄っぺらなものだった。コマを割ったのは女子ひとりと、僕、ジュンのみ。どこで入手したのか、女子は本格的な画材とスクリーントーンを駆使している。ケント紙にサインペンで描いただけの僕らは、彼女に表紙と巻頭を任せた。完成品をぱらぱらとめくる。ジュンは「グルメマンガを描く」と言っていた。実際にはレシピマンガだが、その内容はセンセーショナルだった。タイトルは『目玉丼』。白米を炊き、熱したフライパンにバターを溶かし入れ、卵を割る。半熟で火を止めて、白米のうえに『目玉』を乗せる。最後に醤油をかけて完成。シンプル。「これ、美味いのか」「あたりまえじゃん」当たり前、なのか。中学生の僕にとって、卵と白米がエンゲージするのはTKGにおいてのみ、だった。たまごかけごはん。生の溶き卵しか、ごはんに合わせたことがなかった。そして、目玉焼きには塩と胡椒。ベーコン、サラダ、パンを添える。それが我が家のやりかただった。こうあるべきとインプットされたら、他のやりかたは試さない。目玉焼きならナイフとフォーク。丼の出番はなかった。描いたマンガも、ありがちな型をなぞった面白みのないものだ。狭い場所で、ただ間違わないように既存の回答を繰り返す。 そういう僕の臆病は、いまも変わらない。

ついてくるナベチン 〜ジュンと僕の物語10.5

時は前後して。これは、中学生の僕が『立て直しを図るまで』に起きたこと。つまり、ジュンと離れている間に起きたこと、だ。一学期が終わるまで『オガワ襲撃事件』の余波は続いた。 僕は既に出版委員会に属していたが、記者が事件を起こしていては世話もない。演劇部への中途入部も滞っていて、くさくさした日々だった。 とはいえ、一軍からの嫌がらせは凪いだ。シカトだけなら楽なものだ。 楽になると他人のことが見えてくる。 小学校時代、同じグループに属していたナベチン。どうやら彼が、壮絶な窮地に陥っている。 ナベチンの敵は一軍よりも強大な存在、『女子』と『バレー部の先輩』だった。このふたつは絶対に敵に回してはいけない。 まず、女子の『ナベチン吊るし上げ計画』が耳に入った。虚勢を張った彼が「あいつとヤッた」と空言を吹聴したため、その子を中心に憤激が渦を巻いている状況だ。 なんてことやらかしたんだ、ナベチン。 さらに、『廊下で会釈をしない』などの無礼が、バレー部の先輩たちを烈火のごとく怒らせている。上階から長身の集団が「ナベはどこじゃ」と喚きながら降りてきた。 そんなんなら運動部に入るなよ、ナベチン。 自業自得だ。彼とはそこまで親しくない。助ける気もなかったが、知らせておこうとは思った。 「いまからくるぞ」 「え、どうしよう。どうしたらいい」「逃げたら」と返したら「どこに逃げればいい」と、彼はノープラン。仕方がなく、僕はナベチンを中庭に避難させた。彼は藤棚のしたに、二時間くらい隠れていたと思う。数日後、結局ナベチンは両グループから吊るし上げを食らった。端で見ていても恐ろしかった。いっときでも匿われたことを恩に着たのか。それ以降、ナベチンが僕の鞄持ちを始めた。持たせたつもりはない。奪われたようなカタチだ。こちらは越境なので、電車通学なのだが。連日、家までナベチンがついてくる。「やめろ」と言ってもついてくる。玄関先で「じゃあ、また明日」と去っていく。 そのときの気分の悪さと言ったら、筆舌に尽くしがたい。 「頼むから」と懇願して、やめて貰った。健全な友人関係が懐かしい。僕は演劇部への入部を急いだ。ジュンを誘う口実を、躍起になって模索した。